今回の記事は「宇宙戦艦ヤマト」企画時の方々の証言が多く書かれている『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男・西崎義展の狂気』(牧村康夫・山田哲久共著)、『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(豊田有恒著)を参考にしています。
(「宇宙戦艦ヤマト」著作権問題について振り返る③からの続き)
結論から述べると、前述の訴訟の経緯・判決は
2002年『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権は西崎氏である旨の判決に伴い松本零士氏は控訴、西崎氏も反控訴。
2003年『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解。西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定。
2004年西崎氏と東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルの間の控訴審で和解が成立。裁判所により和解調書が作成され、3社は「西崎義展が『宇宙戦艦ヤマト』の著作者である旨を公表しても反意を唱えない」ことを確認して了承する。
という内容の判決となりました。
裁判に伴い証言された当事者の周囲にいたヤマト製作当時の関係者達のいくつかを紹介すると、
「さらば宇宙戦艦ヤマト」製作開始時から西崎氏の製作助手を務め、松本零士氏とも頻繁に連絡をとっていた山田哲久氏によると、「さらば宇宙戦艦ヤマト」のシナリオの印刷台本を作成する前に西崎氏と松本零士氏の間で映画の表記について話し合いをしており、その後、西崎氏から印刷台本・ポスターの表記を「総設定・監督松本零士」とするように指示を受けたそうです。
山田氏は総設定については異論が無いものの、すでに舛田利雄氏がプロット、シナリオ打ち合わせ、絵コンテチェック等の監督としての作業を遂行しているのにも関わらず、松本零士氏は会議にも出席することがほとんど無いなど、監督としての業務を遂行しているとは到底言えないことより監督という職名が後々トラブルになるのではないかと危惧していたようです。
西崎氏が話題づくりの一環として監督・松本零士の表記確かに宇宙戦艦ヤマトのヒットにつながりましたが、結果的にそのことが裁判の遠因となったのでした。
また、山田氏の証言では1977年8月17日に交わされた合意書についても紹介されいます。そこでは西崎氏、松本零士氏の職名、職責が明確に記載され、お互い『原作』の表記は無く、『原案 西崎義展』『全設定デザイン・監督 松本零士』でした。また、同年11月20日の「さらば宇宙戦艦ヤマト」についての覚書では『松本零士を筆頭原作者とする共同原作物であることを確認する』と明記していますが、「さらば宇宙戦艦ヤマト」のクレジット、およびパンフレットには原作の記載はありませんでした。ちなみに「ヤマトよ永遠に」「宇宙戦艦ヤマト完結編」では西崎氏、松本零士氏両名が原作として表記されています。
つまり、両名は「劇場版宇宙戦艦ヤマト」の公開後から原作について揉め出し、「ヤマトよ永遠に」「宇宙戦艦ヤマト完結編」で両名を原作表記したことは妥協の賜物だったようです。
ただし、1976年に発刊された書籍では松本零士氏は原作について「あいまいでわからない」と語っていることより最初から原作を主張していたわけでは無いようです。
山田氏は『松本零士氏は西崎氏の逮捕をきっかけに「ヤマト」を自分のものにしたかったのではないか』と推測しています。また『アニメにおいてメカや人物のデザインは世界観を構築する上でとても大切です。また、ヒットの要因になることより、西崎氏にとって松本零士氏は絶対必要条件で最重要人物でしたので最後まで争うつもりは無く、売られた喧嘩を買ったまでではないか』という旨をも証言しています。
そして『宇宙戦艦ヤマトの基本設計から作成完成の全ての中心人物は西崎氏であるという結論に変わりは無く、ただし、松本零士氏がいたからヤマトはSFブームに乗り大ヒットしたことも事実です』と見解を述べています。
裁判は冒頭で述べた通り、西崎氏の完勝の判決となります。判決では西崎氏の企画書が原作と認定され、松本零士氏が関与した作業は「美術および設定デザインの一部」と判断され、松本零士氏の主張は全面的に却下され、西崎氏の著作者人格権が確認されたのでした。
一方、両者間の著作権問題の周囲では様々なビジネスの動きが発生していました。
(つづく)
↓松本零士先生のキャラクターに近いゲームのムービーパート。このタッチでリメイクをして欲しかったという意見も多いですね。
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