今回の記事は「宇宙戦艦ヤマト」企画時の方々の証言が多く書かれている『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男・西崎義展の狂気』(牧村康夫・山田哲久共著)、『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(豊田有恒著)を参考にしています。
(「宇宙戦艦ヤマト」著作権問題について振り返る①からの続き)
1974年10月よりテレビ放送された「宇宙戦艦ヤマト」は同時間帯の裏番組「アルプスの少女ハイジ」人気が大きかったため、低視聴率に苦しみ全39話のストーリーは26話に打ち切られてしまいました。
しかし、「宇宙戦艦ヤマト」のアニメの完成度の高さに驚愕した一部ファンや再放送による人気の盛り上がりを背景に西崎義展氏はその当時では大変稀有であったアニメの劇場公開を自主配給にて東急系にて公開するという大勝負に出ます。
かくして、1977年に公開された劇場版「宇宙戦艦ヤマト」は大ヒットし、ヤマトブームとして社会現象となりました。そして、その公開翌年の1978年8月には東映系配給として「さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち」が公開され、劇場版「宇宙戦艦ヤマト」以上の大ヒットを記録しました。
劇場版「宇宙戦艦ヤマト」「さらば宇宙戦艦ヤマト」と立て続けに大ヒットを飛ばした西崎義展氏と松本零士氏の関係は「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストであるヤマトの特攻について意見が相違するということにはなりましたが(西崎氏の特攻案が西崎氏の独断で採用されました)、著作権の問題は発生せず、次作の劇場版「ヤマトよ永遠に」では西崎氏と共同で記者会見に出席したり、映画公開イベントでは船長に扮するなどしていました。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」以上のヒットを目指す西崎氏はヤマト以外の作品を製作しますが失敗に終わり、西崎氏本人の浪費やアニメ以外の事業でも大損失を発生させたことより「宇宙戦艦ヤマト」を製作したオフィス・アカデミーを破産させることとなります。そして以前より会社を立ち上げていたウェスト・ケープ・コーポレーションへ1982年に活動拠点を移しました。
翌年1983年「宇宙戦艦ヤマト・完結編」を公開し宇宙戦艦ヤマトシリーズを完結させ、1985年、ヤマトに代わるヒット作にするつもりであった西崎氏渾身の「オーディーン」は大失敗に終わり、ウェスト・ケープ・コーポレーションは大損害を被り、西崎氏が配給元の東映へ不義理をはたらき、東映との良好な関係も終わることとなってしまいます。
1987年に公開された初の実写プロデュース作も失敗に終わり更に資金面が苦しくなると、1996年に資金調達のため「宇宙戦艦ヤマト」シリーズを含む西崎氏が有する著作権を担保にバンダイビジュアル(現在のバンダイナムコアーツ)と3億円の金銭貸借契約を結び、東北新社へ著作権を譲渡する契約を結びました。
しかし、西崎氏と裁判トラブルとなり不満を持つバンダイビジュアル、東北新社は1997年3月にウェスト・ケープ・コーポレーションと西崎氏個人に破産申し立てをしていた大口債権者の三井ファイナンスサービスを強力にバックアップし、ついにウェスト・ケープ・コーポレーションは倒産し、西崎氏は破産することとなってしまいます。
(つづく)
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