「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気

「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 おっさんホイホイ

はじめに

今からちょうど45年前の夏、1977年8月6日に劇場版「宇宙戦艦ヤマト」が公開されました。

この劇場版「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットがアニメブームとなり、そして、それが今では日本のポップカルチャーのひとつとして世界中の若者を中心にたくさんの人々に知られるようになり、クール・ジャパンの一角になっていると思うと大変感慨深いものがあります。

今回はもし、この人がいなければ「宇宙戦艦ヤマト」はこの世に生まれなかった、そして、もし、この人がいなかったらば「ガンダム」「エヴァンゲリオン」と繋がる今の日本アニメ史も全く違ったものとなっていたであろうと思われる故西崎義展氏についての書籍『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』を紹介します。

出版社 発行年月日

このブログは講談社より2017年12月20日に発行された文庫版をベースとしています。文庫版では新たに出渕裕監督の証言等が書き加えられたり、新たな取材に基づいて加筆されたり、修正されたりした箇所があります。

著者

牧村康正+山田哲久

牧村康政(構成・執筆・取材)
山田哲久(企画・取材・証言)

虫プロと西崎義展氏

株式会社虫プロダクション(虫プロ)は漫画界のレジェンド手塚治虫先生がアニメ製作専門のプロダクションとして1961年に設立していた手塚治虫プロダクション動画部を1962年に改称したものです。

1962年、虫プロ第一作となる38分の短編アニメション「ある街角の物語」を製作した後、1963年には日本初となる30分の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作し、大ヒットとなります。

1965年には日本初のカラーの連続テレビアニメ「ジャングル大帝」を制作するなどするものの、時代は段々と劇画漫画ブームや円谷プロの特撮ブームの時代となって来ており、手塚原作作品の人気の低迷と共に虫プロの経営も迷走をし始めます。

1966年、虫プロの子会社として虫プロ商事を設立し、版権、出版、営業の部門を虫プロ商事に移し、また、虫プロの負債を子会社の虫プロ商事へ移転し、虫プロはアニメの製作だけをする部署となりました。

虫プロ商事では、出版業を中心とするビジネススタイルにするものの、1968年「バンパイヤ」を製作するものの大赤字の結果となり、また、1970年には出版部門全体の編集責任者の方が交通事故で亡くなるという不幸に見舞われました。そして、さらには、虫プロ商事内での労働争議が激化し、虫プロ商事は業務停止状態に陥ってしまいます。

業務停止の責任を取って社長が辞任した後、苦肉の策として手塚治虫先生が社長に就任した1970年の半ばを過ぎた頃、虫プロ商事の苦しい内情を知る虫プロ商事旧知の広告代理店から営業のテコ入れとして推薦されたオフィス・アカデミーの西崎義展氏が虫プロ商事のオフィスを訪れます。

当時、西崎氏はアニメの門外漢だったものの、持ち前の営業力の手腕を発揮して、独自にスポンサー等を獲得してくるなど結果を出し、徐々に虫プロ商事での地位を固め、また、手塚先生担当マネージャーとしても契約を結び、1971年には虫プロ商事の実質的な社長代理となります。

手塚先生担当マネージャーになると「ふしぎなメルモ」のテレビ放送化の売り込みに成功すると虫プロ商事だけではなく、親会社である虫プロでの影響力も強くなり、虫プロ本体を巻き込んだ西崎氏により積極策が次々と打ち出されますが、残念ながら虫プロ、虫プロ商事の経営悪化を食い止めることは出来ませんでした。

「ふしぎなメルモ」同様、西崎氏独自による「海のトリトン」のテレビアニメ放送化の営業に成功するものの、後日、「海のトリトン」の著作権について手塚先生と大問題になるなど禍根を残す中、虫プロ倒産前の1972年、西崎氏はオフィス・アカデミー(第二期)を設立し、虫プロ現場では西崎氏はたくさんの社員に大変嫌われていたものの、オフィス・アカデミー創立メンバーは西崎氏と直接仕事を一緒にしていた虫プロ、虫プロ商事の社員の四名でした。

オフィス・アカデミー

オフィス・アカデミーの西崎氏は「ムーミン」「山ねずみロッキーチャック」等のファミリーカレンダー販売で大成功し、オフィス・アカデミーはごく短期間で豊富な資金を得ることとなります。1973年、虫プロ、虫プロ商事は倒産してしまったものの、虫プロ倒産より前から「宇宙戦艦ヤマト」の企画がオフィス・アカデミー西崎氏以下、山本暎一氏、藤川桂介氏、豊田有恒氏、野崎欣宏氏によって1973年に始まり、出来上がった企画書は西崎氏により売り込まれ、ついに1974年読売テレビでの放送化が決定するのでした。

「宇宙戦艦ヤマト」製作開始

このようにしてオフィス・アカデミーによる番組製作が始まり、作画監督として白土武氏、小泉謙三氏、岡迫亘弘氏、芦田豊雄氏が指名されます。

そして、スタッフの人選、依頼がほぼ終わりかけの頃、西崎氏は宇宙の背景美術について難色を示したことより、当時、既に深みのある宇宙の絵を松本零士先生が描いていたことを知っていたスタッフの野崎氏が西崎氏に松本零士先生のイラストを見せると西崎氏は大変気に入り、後日、西崎氏とスタッフで松本零士先生の自宅へ企画書を持参することになりました。

企画書を見た松本零士先生は依頼された背景や宇宙の色指定の色彩設定にとどまらず、宇宙戦艦としての「ヤマト」のデザインをしたのでした。

この続きは

以上、宇宙戦艦ヤマトの製作開始までのあらすじを書いて来ましたが、ここまでの内容は本書のページ数から考慮すると約四分の一の程です。

この続きには、西崎氏の「宇宙戦艦ヤマト」製作に対する情熱とこだわり、劇場版「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒット、そして、迷走するヤマトシリーズ、西崎氏と富野氏・安彦氏の決別、西崎氏の周囲の人々とのトラブル、西崎氏の晩年等、数多くのエピソードが書かれています。是非とも本書を手に取って、西崎氏の熱い生き様を知って頂きたいと思います。

出渕祐氏の証言

個人的には文庫版化に伴って書き加えられた「宇宙戦艦ヤマト2199」監督の出渕祐氏の製作開始時のやりとりの証言が大変興味深かったです。出渕氏が旧作の宇宙戦艦ヤマトに最大級のリスペクトをしつつも、シリーズ化したことによって迷走したヤマトシリーズに区切りを付けるべく製作した2199のはずだったのが、出渕氏が離れた「宇宙戦艦ヤマト2199」以降のリブート版の宇宙戦艦ヤマトが残念ながら、また来た道を辿っているような気がしてなりません

コメント

タイトルとURLをコピーしました