「宇宙戦艦ヤマト」の真実―いかに誕生し、進化したか

おっさんホイホイ

 

出版社 発行日

祥伝社新書 2017年10月25日

著者

著者の豊田有恒氏は昭和13(1938)年5月25日、群馬県前橋市で開業医の実家の次男として生まれました。幼少時から京都帝国大学出身の父親の蔵書を読み耽る文学少年だったようです。東京の名門校である武蔵高校へ入学するにあたって上京。高校2年時、跡継ぎである兄が重病に罹り、また、父親の急死も重なり、急遽、跡継ぎになるべく医学部に進学することを志すことになります。見事に慶應義塾大学医学部に入学直後、兄が快復したことにより、医学部に入学したものの、跡を引き継ぐ必要性が無くなったため、麻雀等に遊び呆け留年を繰り返し除籍処分となってしまいました。

大学時代、「S-Fマガジン」等多くのSF作品に触れることにより、SFに熱中し始め、新たに入学した武藏大学在籍中の昭和36(1961)年「時間砲」が第一回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)で佳作入賞し、翌年第ニ回空想科学小説コンテストの佳作入賞作品「火星で最後の…」が「S-Fマガジン」に掲載されSF作家としてデビューしました。

武藏大学時代からの友人だった故平井和正氏等と共に日本のSF作家第一世代と言われています。

本作中では故平井和正氏との友好についても書かれています。

解説

武藏大学在籍中、友人である平井和正氏の原作「エイトマン」のアニメ化に伴い、平井氏の推薦にて昭和38(1963)年「エイトマン」で脚本家のデビューをした豊田氏は大学卒業後、手塚治虫先生の虫プロダクションへ嘱託社員として入り、「鉄腕アトム」のシナリオを担当します。

虫プロダクションではその後「ジャングル大帝」のシナリオも担当しますが、昭和40年の「W3事件」にてスパイ嫌疑を受け、手塚治虫先生の元を離れることになります(その後、手塚先生の誤解は解け、手塚先生の晩年まで交流は続いたそうです)。虫プロダクション退職後、昭和42(1967)年「冒険ガボデン島」の脚本を担当した後はアニメの脚本を離れ、作家として活動場を移しますが、昭和48(1973)年、虫プロダクション時代の同僚の故山本暎一氏から数年ぶりのアニメの仕事となる「宇宙戦艦ヤマト」の仕事の依頼をされることとなります。

上記のように、日本アニメ史、そして「宇宙戦艦ヤマト」の歴史の証人である豊田有恒氏の執筆した本作は故西崎義展氏と松本零士先生の「宇宙戦艦ヤマト」における原作者争いに対するひとつの解答と製作当時の模様が詳細に書かれており、まさにサブタイトルにある通り、「いかに誕生したか」そしてタイトルの「宇宙戦艦ヤマトの真実」が理解できる作品となっています。

西崎氏と松本零士先生の原作者裁判で西崎氏が勝訴した後、今日でも製作されている「宇宙戦艦ヤマト」シリーズの原案は西崎氏のみがクレジットされるようになりました。しかし、西崎氏はプロデューサーとしては稀有な才能を持つものの、クリエイターとしての才能が無かったために松本零士先生や豊田有恒氏等、多くのクリエイターの才能によって「宇宙戦艦ヤマト」がどのように誕生したのかがこの作品で紹介されています。

アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインの作品「地球脱出」を読んだ虫プロ商事にも籍を置いていたオフィスアカデミーの西崎氏が虫プロダクションの山本暎一氏に「本格的なSFアニメをやりたい!」と声をかけたことによって、最初に山本氏から西崎氏を紹介されたのが豊田氏だったのです。

西崎氏と初めて会った豊田氏はその際に漫画は松本零士先生に依頼して承諾を貰っているので、設定を考えて欲しいとの依頼を受け、企画案を作成することとなります。

松本零士先生のヤマトへの参加は企画案作成よりも早く決まっていた

豊田氏の企画案「アステロイド6」は「地球脱出」をオマージュしているため、最初に「危機的状況の地球」という状況がストーリーの根本になっており、そこに「西遊記」のエッセンスが加えられ、小惑星を改造した宇宙船で地球の危機を救う放射能除去装置(=尊い法典)を取りに行くためイスカンダル(=天竺)を目指すというストーリーになりました。イスカンダルへ向かう宇宙船のエンジン設定(後の波動エンジン)や各種SF設定をしたこの企画案が原案となり、故石津嵐氏、藤川佳介氏等多数のクリエイターでストーリーが練られていきました。

イスカンダルへ向かう小惑星を改造した船が豊田氏の知らないところで戦艦大和を改造した宇宙戦艦ヤマトに変更になったことを知った豊田氏は大変驚き、その案に反対をしますが、松本零士先生の案だと言われ、腑におちないながらもこの案を受け入れ、当初はSF設定・原案のみの担当で原案後は先方に任せるという考えを改めて、最後まで「宇宙戦艦ヤマト」という作品に関わることを決意します。

戦艦大和を用いるというアイデアは松本氏のアイデアと記憶している

松本零士先生のキャラクター・メカニックのデザイン原案を経て、西崎氏の会社であるオフィスアカデミーの元、西崎義展氏をプロデューサー、監督は松本零士先生(絵コンテ・美術・設定デザインも担当)、演出は故石黒昇氏、キャラクター原案を元にしたキャラクターデザインは岡迫亘弘氏、そして、豊田氏は原案では無く、SF設定のクレジットでアニメが製作されていきます。

豊田氏が原案からSF設定に変更された経緯は本書に詳しく書かれており、親友である故小松左京氏と一緒に原作を担当した「猿の軍団」が同曜日、同時間に放送されていなければ、原作問題について後日西崎氏が暴走することも無かったかもしれません。

最初のノベライズでは豊田氏が原案としてクレジットされている。
ちなみにこの小説はトラウマレベルの展開です。

アニメ放送が始まった「宇宙戦艦ヤマト」は裏番組の「猿の軍団」では無く、「アルプスの少女ハイジ」に視聴率で惨敗するものの、宇宙戦艦ヤマトブームを引き起こし、シリーズ化されていくことなります。「さらば宇宙戦艦ヤマト」でヤマトとの付き合いも終わりと思っていた豊田氏ですが、2匹目以上のドジョウを狙う西崎氏にその後も引き続き、「完結編」まで半ば強引に付き合わされていくこととなりますが、本書では西崎氏の元を離れて行く多くのクリエイター達の話も書かれています。

また、本書では出渕監督作品の「宇宙戦艦ヤマト2199」製作時の話も書かれています。元々、出渕氏は豊田氏の自宅へ遊びに行くようなSFファンの若者のひとりだったのですが、その才能に気づいた豊田氏が宇宙戦艦ヤマトの作品へ19歳の出渕氏を導いたという経緯があります。リメイクするにあたって、オリジナルである「宇宙戦艦ヤマト」という作品の成り立ちを知る出渕氏は製作プロダクションに交渉するも、豊田氏、松本零士先生のクレジットを「宇宙戦艦ヤマト2199」に入れることが出来ない申し訳無さに、両氏に謝罪をする模様があるのですが、その際、松本先生は怒るどころか出渕監督へ励ましの言葉を送るというエピソードがあり、松本先生の懐の大きさを感じられます。このような出渕氏と製作プロダクションとのやりとりを読むと、2199以降のヤマトリメイクシリーズに出渕氏が参加しないことも理解出来るような気がします。

最後に

「宇宙戦艦ヤマト」と同じように大ブームになった「機動戦士ガンダム」については原作が富野喜幸氏であることに誰も異論を唱える人はいないでしょう。安彦良和氏のキャラクター、大河原邦男氏のメカニック、松崎健一氏等優れた脚本家陣の才能が見事に融合してガンダムという作品を作り上げたわけですが、あくまでもガンダムの原作は富野喜幸氏と認識されているわけです。もし日本サンライズだけが原作者(矢立肇名義)と主張したとしたら、著作権を取得しなかったことを後悔していながらも納得している富野氏でもきっと裁判を起こすのではないでしょうか?

本書では何度か「宇宙戦艦ヤマト」という作品の原作者についての言及がありますが、元々が松本零士先生の原作マンガのアニメ化では無いため、「銀河鉄道999」のような松本零士先生の100%原作とは書いていません。誰が「宇宙戦艦ヤマト」の原作者であるかは豊田氏はどのように書いているかは、ネタバレになってしまうのでここには書きません。しかし、西崎氏であるとは決して書いていません。「宇宙戦艦ヤマト」がどのように生まれたのか?その全てを知る証人である豊田氏の本書を是非とも読んで、確認して欲しいと思います。

(追記)
豊田有恒氏が先日11月28日に東京都内のご自宅で闘病の末お亡くなりになったという訃報が流れました。享年85歳でした。心よりお悔やみ申し上げます。

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