大和田秀樹先生の「『ガンダム』を創った男たち」感想『1stガンダム』ライブ視聴世代の思い出①

ガンダムを創った男たち表紙画像 コミック

先日、創業60周年を迎えるタツノコプロを扱った「タツノコプロを創った男」が宝島社から発刊され話題となりましたが、今回は同じく「創った男」をコミカライズした作品である大和田秀樹先生の「『ガンダム』を創った男たち」を紹介します。

大和田秀樹先生は昭和44(1969)年9月19日生まれ、茨城県の有名進学高校を卒業後、旧帝大のひとつである東北大学工学部に入学しました。1999年「楽しい甲子園」でデビューし、現在は「角栄に花束を」「機動戦士ガンダムさん」を連載しています。

機動戦士ガンダムさん推薦画像
安彦良和先生も推薦の「機動戦士ガンダムさん」

大和田秀樹先生の「ガンダムを創った男たち」のキャラクター設定や描写はかなり大袈裟なところがあるものの、作品全体の空気感は作品上で描写されている時代をガンダムファンとして過ごした自分としては、当時の雰囲気を非常に感じさせてくれる作品だと思っています。

古谷徹氏を殴る富野監督のギャグ画像
アフレコ時、古谷徹氏を殴る富野監督「リングにかけろ」オマージュ?

ストーリーは「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒット後の1978年、「機動戦士ガンダム」の原形である「ガンボーイ」の企画段階からのスタートとなります。

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キャラクターデザイン担当の安彦良和氏、メカニックデザイン担当の大河原邦男氏の登場シーンについては大嘘が満載ですが、機動戦士ガンダムの製作における二人の重要性、富野氏との古くからの関わり等はしっかりと描かれているのではないでしょうか。

あなたは誰?的な安彦先生

スポンサーである玩具メーカーの「クローバー」との交渉を上手く切り抜けた富野監督を中心に日本サンライズ(現サンライズ)の制作現場は1979年4月の放送開始に向けて1978年の年末にはすでに修羅場となっていたそうです。

富野監督キャラクター画像
富野監督のキャラクターが最も変更されています

そして、ついに1979年4月7日土曜日の夕方5時半、「機動戦士ガンダム」は初回放送を迎えます。初回放送を視聴した制作スタッフ達は作品の出来映えに大きな手応えを感じたものの、初回の視聴率はわずか3%と大惨敗をします。(ちなみにガンダムと同じ放送局の次の時間帯である6時からの番組「バトルフィーバーJ」は12.9%でした)

低視聴率シーン画像
この低視聴率こそガンダムブームの大きな要因だったと思います

そして、第7話「コアファイター脱出せよ」ではビデオリサーチ調べで視聴率1.9%、ニールセン調べでは視聴率測定不能となり、実質視聴率0%という状況に追い込まれてしまいます。

スポンサーからの視聴率アップの要求に対して、富野監督は本意では無いGファイターやゴッグ、グラブロ等の新型のモビルスーツを続々と登場させるも視聴率はなかなか上がらず、そんな折、制作スタッフの大黒柱であった安彦氏が急病で入院することとなってしまいます。

安彦氏倒れる画像
「リングにかけろ」オマージュ再び!

ついに、低視聴率に業を煮やしたスポンサーからクリスマス商戦の終わり、年の明けた1980年1月で放送の打ち切り決定が下されてしまいます。しかし、一部マニアの間で燻っていたガンダム人気は、テレビ放送開始時から「機動戦士ガンダム」を一推ししていた雑誌「アニメック」でガンダムの打ち切りの記事を読んだガンダムファンを中心にして大きなムーブメントとなっていくのでした。

アニメック編集部画像
新宿御苑前にあった「ラ・ポートビル」が懐かしいですね

玩具メーカー「クローバー」のターゲット層とは違った年代の多くのガンダムファン達が子供向けの玩具を購買したことによって、クリスマス商戦のガンダムの玩具は大ヒットし、その年の「クローバー」の利益は過去最高利益を計上します。

ガンダムファンの玩具購買画像
ほんとうにこのような気持ちでクローバー玩具を買ってたんですよ

玩具のヒットを受けて、テレビ放送の延長が富野監督へ打診されるも安彦氏不在の制作スタッフ陣にはスケジュールの変更を出来る余力もなく、第43話「脱出」で制作アップを迎えます。最終回の視聴率は16.5%、占拠率33.2%と夕方のテレビ番組としては驚異的な数字を記録しました。

放送終了後もテレビ局には再放送希望の嘆願書が届くなど、ガンダム人気は更に燃え上がり、放送終了後わずか39日後の1980年3月5日からは再放送が開始されるのでした。そして、それは映画化への第一歩だったのでした(つづく→大和田秀樹先生の「『ガンダム』を創った男たち」感想『1stガンダム』ライブ視聴世代の思い出②)

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